2013年7月29日月曜日

歴史

 ラオスがいつから成立したのかは、昔の資料が残っていないため、断定することができませんが、諸説ある中で、1353年にラオ族のファーグムという人が建国した、ラオ族最初の統一王朝ランサン王国がその起源として最も有力だと考えられています。ルアンパバーンに都を置くランサン王国の時代は、タイやベトナムと戦い、またラオ族文化と仏教も普及しました。1479年、ベトナムの侵攻により王国は崩れましたが、その後はベトナム勢を撃退しました。

 16世紀になると王国の勢力は最大になり、ラオ族の世界がチャンパーサック地方まで拡大されていきます。しかし1551年に即位したセタティラートの時代に、ビルマとの間に覇権争いが勃発しました。これを受けてセタティラート王は、ビルマの侵攻を避けるために、1563年ビエンチャンに遷都しました。一度ビエンチャンはビルマ郡に占領されますが、17世紀のスリニャウォンサーの時代に、ランサン王国は平和で仏教芸術が花開く黄金期を迎えます。

 スリニャウォンサーの死後は王位継承争いが起こり、1700年代初頭にランサン王国はルアンパバーン王国ビエンチャン王国チャンパーサック王国の三国に分裂し、(シャム)タイの支配下に置かれてしまいます。 

 そんなラオスのピンチに現れたのがアヌ王です!1804年にビエンチャン王国の国王として即位したアヌは、1827年シャムに反旗を翻します。結局アヌは撤退を余儀なくされますが、反撃は失敗に終わりますが、現在においても、アヌはラオスで最初に独立を求めたひとだといわれ、その勇気を讃えられています。

 その後しばらくシャムの支配が続きますが、1893年10月のフランス・シャム条約でメコン川東岸においてフランスの支配がスタートします。

 20世紀になるとラオス全体でナショナリズム運動が起こります。1940年代はルアンパバーン王国のペッサラートによるラオス刷新運動(ラオ・ニャイ運動)が顕著になり、文学や歴史研究を通してラオスアイデンティティが確立していきます。これと同時期にタイとフランスの間でタイ・仏印国境紛争が勃発し、タイが勢力を拡大してきますが、タイの支配から脱却するためだけでなく、ラオスの完全独立を目指して行われるようになりました。

 その動きの中で、1945年にラオスではじめてラオス人によって構成される政府、ラオ・イサラ(自由ラオス)政府が、樹立されましたが、フランスのビエンチャン占領により、ラオ・イサラ政府は万国へ亡命します。亡命政府を打ち立てたスパーヌウォンはベトミン側に、スワンナプーマーはフランス側につき、ペッサラートは中立の立場を選んだため亡命政府は解散しました。

 1945年から1975年の30年は、ラオスにおいて、独立をめぐった「30年に及ぶ闘争の歴史」と呼ばれています。1950年、ベトミン側についたスパーヌウォンとカイソーンは新組織、ネオ・ラオ・イサラ(ラオス自由戦線)を結成し、フランス領内での独立ではなく、ラオスの完全独立を目指して北部に解放区を築きました。1953年にラオス王国の完全独立がなされ、1975年には現在のラオス人民民主共和国が成立しました。

 参考文献:ラオスを知る60章 130~159ページ

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