2013年7月30日火曜日

2013年 J&Lメンバー

代表   田中奈津美(4)
副代表  岡村佳恵(4)
      柳沢美竣(4)

      三浦奈綾(4)
      戸田成紀(4)
      毛利香菜子(4)
      野田葵(4)
 
      滝口芽衣(3)
      辻村まりな(3)
      縫田あゆみ(3)
      山本唯(3)
      中山祐太(3)

      河戸幸恵(2)
      光成奈々子(2)

      片居萌子(1)
      高瀬みお(1)

2013年7月29日月曜日

宗教

 ラオス人のほとんどは『上座仏教』を信仰しています。ラオスには多くの寺院があり、ラオスを訪れた際にはオレンジ色の僧衣に身を包んだお坊さんが街中を歩くのをよく目にするでしょう。ラオスの上座仏教は寺院を基点として、人々の日常生活に深く溶け込んでいるのです。


✿具体的に上座仏教は人々の生活とどう関わっているの?
①托鉢
ラオス人の1日は「托鉢」から始まります。托鉢とはお坊さん側の表現で、人々が行うのは「喜捨」です。毎朝お寺から鉢を抱えたお坊さんと20歳以下の見習い層の行列がやってきます。すると、道端で腰を低く待っていた女性たちを中心とした在家者たちが、炊いたばかりのご飯などをその鉢の中に入れていきます。これが「喜捨する」ということです。お坊さんたちはお寺に戻り、人々が喜捨した朝ご飯を食べるのです。これはお昼にもあり、今度は村の女性たちがお寺へ向かい昼ご飯を喜捨します。この役割は各世帯の持ち回りとなっています。

②出家
「出家」とは悟りを開く道のりへの出発点で、上座仏教徒の男性が剃髪(頭の髪や顔のひげを剃ること)し、黄衣をまとい俗世界を離れ寺院にとどまります。ラオスの上座仏教徒にとって出家とは最大の徳を積むことであり、身内の男性に対し一生に一度は出家するべきであると勧めます。
出家期間は人によって様々で、早い人では数日で俗世界へ戻って来ます。


《参考:ラオスを知るための60章(明石書店)》

歴史

 ラオスがいつから成立したのかは、昔の資料が残っていないため、断定することができませんが、諸説ある中で、1353年にラオ族のファーグムという人が建国した、ラオ族最初の統一王朝ランサン王国がその起源として最も有力だと考えられています。ルアンパバーンに都を置くランサン王国の時代は、タイやベトナムと戦い、またラオ族文化と仏教も普及しました。1479年、ベトナムの侵攻により王国は崩れましたが、その後はベトナム勢を撃退しました。

 16世紀になると王国の勢力は最大になり、ラオ族の世界がチャンパーサック地方まで拡大されていきます。しかし1551年に即位したセタティラートの時代に、ビルマとの間に覇権争いが勃発しました。これを受けてセタティラート王は、ビルマの侵攻を避けるために、1563年ビエンチャンに遷都しました。一度ビエンチャンはビルマ郡に占領されますが、17世紀のスリニャウォンサーの時代に、ランサン王国は平和で仏教芸術が花開く黄金期を迎えます。

 スリニャウォンサーの死後は王位継承争いが起こり、1700年代初頭にランサン王国はルアンパバーン王国ビエンチャン王国チャンパーサック王国の三国に分裂し、(シャム)タイの支配下に置かれてしまいます。 

 そんなラオスのピンチに現れたのがアヌ王です!1804年にビエンチャン王国の国王として即位したアヌは、1827年シャムに反旗を翻します。結局アヌは撤退を余儀なくされますが、反撃は失敗に終わりますが、現在においても、アヌはラオスで最初に独立を求めたひとだといわれ、その勇気を讃えられています。

 その後しばらくシャムの支配が続きますが、1893年10月のフランス・シャム条約でメコン川東岸においてフランスの支配がスタートします。

 20世紀になるとラオス全体でナショナリズム運動が起こります。1940年代はルアンパバーン王国のペッサラートによるラオス刷新運動(ラオ・ニャイ運動)が顕著になり、文学や歴史研究を通してラオスアイデンティティが確立していきます。これと同時期にタイとフランスの間でタイ・仏印国境紛争が勃発し、タイが勢力を拡大してきますが、タイの支配から脱却するためだけでなく、ラオスの完全独立を目指して行われるようになりました。

 その動きの中で、1945年にラオスではじめてラオス人によって構成される政府、ラオ・イサラ(自由ラオス)政府が、樹立されましたが、フランスのビエンチャン占領により、ラオ・イサラ政府は万国へ亡命します。亡命政府を打ち立てたスパーヌウォンはベトミン側に、スワンナプーマーはフランス側につき、ペッサラートは中立の立場を選んだため亡命政府は解散しました。

 1945年から1975年の30年は、ラオスにおいて、独立をめぐった「30年に及ぶ闘争の歴史」と呼ばれています。1950年、ベトミン側についたスパーヌウォンとカイソーンは新組織、ネオ・ラオ・イサラ(ラオス自由戦線)を結成し、フランス領内での独立ではなく、ラオスの完全独立を目指して北部に解放区を築きました。1953年にラオス王国の完全独立がなされ、1975年には現在のラオス人民民主共和国が成立しました。

 参考文献:ラオスを知る60章 130~159ページ

基本情報

正式名称:ラオス人民民主共和国

地図:

http://atlas.cdx.jp/nations/asia/image/mlaos.gifより)

面積:24万平方キロメートル

人口:639万人

首都:ビエンチャン

民族:ラオ族を含む計49民族

言語:ラオス語

宗教:仏教



(外務省ホームページより)